お金貸して、と言われたら
 セネガル人と長く付き合うと、あるいは、セネガルに暮らすと、誰でも一度は直面する困難な状況、それは、「借金の依頼」ではなかろうか。

 普通、日本人同士なら、そんな状況滅多にない。ローンにキャッシング、無人の機械が「どんどん借りて!」とそこら中にある。そんな言いにくい事を友達に頼むより、利息払った方が楽じゃないか。
 ところが、そんなシステムなど夢にも思わない国から来た輩、困ったときに頼みになるのは友人と親戚だけ、というお国柄。そこに、経済大国出身のあなたがいたら...。

 誰でも外国人の友達に「お金貸して」と言われたら、悩む。「普通は友達にそんな事言わないのに、私に頼むなんてよっぼど困っているのかしら」「この程度の付き合いでそんな事頼むなんて、私の事“カモ”とでも思ってんじゃないの」「いやいや、この人の文化では、友達同士でお金の貸し借りするのは、当たり前なのかも」と、揺れる心に浮かぶ寂しい財布の中身(私の場合)。

 経験から言います。セネガル人にお金を貸して、戻って来た確率はゼロに等しい。
 なぜか。返す気がない人、これは論外。でも、セネガルで暮らして初めて分かった。返したくても返せない状況ってのは、本当にあるんだな、と。

 日本には、貧乏人はいるけれど、貧困にあえぐ人、は階層としていない。でも、セネガルには、いる。食べていけない人、病院に行けなくて死んで行く人が多数いるなかで、社会保障だの社会福祉だのが無いんだから、人の相互扶助のみで人は生きている。いつだって周りに自分を頼りにする人がいる生活では、収入は一人だけのものではない。ちゃんと食べている人に返すお金は、最後の最後まで後回しになる。

 では、どうするか。貸すか、貸さないか。
 お金を貸して、と言って来た人が、どういうつもりでいるのかと考えるから迷う。私は、そうではなく、自分がどう思うかを基準に考える。「この人にこの金額を渡して返ってこなくても、それでも笑って付き合っていけるか。」それでYesなら、あげるつもりでお金を渡す。友達が困っているのを助けられたんだから、それでいい。Noなら、あるいは、迷うなら、「悪いけれど貸せない」と断る。それで離れていく人なら、それは、しょうがない。
 貸す、と思うから迷う。あげられるか、あげられないか、で判断した方が、あとあとの葛藤が少なくてすむ。

 セネガル人と深く付き合うと、必ず「助け合い」の程度や概念が違う、と悩むのでないでしょうか。悩むのはしょうがないけれど、傷つきたくはないので、経験談でした。

 by ソフナシ
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by gattsaf | 2005-02-01 06:53 | セネガル人ってさ
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