慈悲
昨夏、セネガルに行って、消しきれなかった私のもやもや。
あれは、セネガルでの人々の慈悲が純粋に慈悲に見えなかったことかもしれない。
最近そう思う。

セネガルはモスリムが9割以上の国。イスラムの教えが何かと行動規範になっている。なんでも、喜捨という行為。モスリムには一生のうちにやるべき義務というのがいくつかあるそうなのだが、その1つが喜捨(ザカートという)。喜捨というのも、その純訳にはなっていないらしいが、私の解釈としては、願い事なしのさい銭みたいなもの。神様への義務としてさし出す財産。

  しかーし。神様なんて実際いない。そんなの個人の信じる気持ち次第であるもないも決まるもの。でも、財産=お金は実際に「ある」もの。というわけで、神様にさし出すべきその財産は、実際どこにいくのー?と見ていると、貧しい人たち。たいてい、物ごいを指す。

 イスラムの世界にいれば、喜捨をするために、物ごい=神と置き換えることができるんだろうけど、俗世に根を張って生きる私としちゃ、「物ごいはさあ、他人のお金期待して、自分じゃ働こうともせず、おまけに「もらってやってる」感じでさー。お金をあげる方も、結局は自分が徳を積むために小銭をあげちゃって、なんだよ、自分のためかよ」としか見えなかった。生産性とは全く無縁かつ、知恵があろうとも働く能力が高かろうとも、がんばろうとも報われないシステム。「あたしゃ働けないんだよ。だから恵んでおくれよ」と丸々太った健康そうなおばちゃんに厚かましくうらめしく言われたら、そんなの脅しじゃないか。あまりに堂々と「こんなに哀れな私を見て何もしないなんて!」と請求されれば、責められている気もしないでもない。
 これは、他人の懐具合ばかりを期待して生きることを許すセネガル社会に対し、「働かざるもの食うべからずじゃ!」と、ささやかにも抵抗していた私の意志が弱ったから、こんなふうに後ろめたく思ったのかもしれないけどさ。

 余計なお世話なんだろうけれど、本当に誰もが豊かに暮らす社会を望むなら、物ごいに一時しのぎのお金をやるより、仕事を与えるべきだろう。物ごいは神じゃない。俗世のA級の俗人である。

なんというのか。いくら義務とはいえ、真に相手のためにならない施しなぞ、自己満足なだけじゃないのか。
 たかが100セファ。10セファ。それでもチリも積もれば結構な額になるんだろう。セネガルで「神の子」と呼ばれる物ごいの子供。ちょっと汚い服は着ているが、丸々太り体格はよかったりする。で、「おまえは金持ってんだろ!」と言わんばかりに、無言で私の目の前に缶を指し出す。「あんたら、なんか間違ってるよ」と思ってしまう。そんなのみると、タイやインドネシアで、信号待ちの車のフロントガラスを強引にきれいにして、お金をせびる、ってほうが、まだまし。

「喜捨」。なんだか、尊い「慈悲」の気持ちが、神様への点数稼ぎの「自分のため」に近すぎて、しらじらしいのである。自己満足の親切ほど浅ましいものはない。相手を深く思いやる、という気持ちの中には自分の都合はどこにもないはず。だから、徳を積むなんてのは簡単にできないんでしょ?

行くたびに嫌な部分が拡大されて見えてしまうセネガル。この理由の1つがちょっと見えた今日このごろ。(fatou@吉)
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by gattsaf | 2004-04-16 00:48 | セネガル人ってさ
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